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Report No.395

江戸東京博物館
『北京故宮 書の名宝展』
2008/07/15〜09/15

圧巻でした。

王羲之の『蘭亭序』をはじめとして北京故宮博物院の所蔵する書の名品のうち65点が、この夏、東京の江戸東京博物館で展示されました。初日の夕方に行ったときは、どの部屋もおじいさんがちらほら鑑賞しているだけ。「何故?」と心配しましたが、終盤は入場制限があるほどの混雑となりました。最後まで来訪者の平均年齢が高い(つまり、おじいさん・おばあさんが多い)展覧会でしたが、伝統の素晴らしさをもっと若い人たちに見て頂きたかったと思います。

最近の子供たちはお習字などしないのでしょうか?私は幼少の頃、半ば強制的に放課後にお習字のお稽古をやらされました。字が上手くならなくても、筆の使い方、漢字の書き順や崩し方が自然に身に付くだけでなく、いくらかは古文書を読めるようになるので、今ではやっていてよかったと思います。そのお習字のお手本になる楷書や行書・草書の、そのまたお手本のお手本…として、最後に行き着くのが王羲之の書体です。その意味では、王羲之の書体は、特別個性的なものではなくオーソドックスな字と思われるかもしれません。しかし、それは、その書体の素晴らしさ故に、長い年月お手本として見慣れてしまったからなのです。当時としては書を芸術の域まで高めたという、むしろ革命的な書体であり、近代書道の祖として『書聖』と言われる所以です。

王羲之(307?〜365?)は東晋の人です。中国史に不案内な方のために、ざっとおさらいをしますね。魏・蜀・呉の三国時代は、280年、魏臣・司馬炎が洛陽に建てた晋によって呉が滅ぼされたことで終わりを告げ、天下が統一されました。その晋も五胡の乱により316年に滅亡します。そのとき、南へ逃げた晋の皇族が建康(南京)を都として東晋を建て、100年の間その王朝を維持しました。中国の歴代王朝にとって、中原を制することは悲願でした。中原の中心都市である洛陽や長安(現・西安)はそのシンボルで、日本で言えば京に上って京を制することが戦国武将の天下統一の条件だったことに似ています。その洛陽を捨てて揚子江(長江)に臨む建康に首都を移したことは彼らにとって文字通り都落ちだったのですが、農作物に恵まれた江南の気候は、明るく瀟洒な王朝芸術や文人も生みました。

書聖として有名な王羲之も、本業は武将でした。そして、東晋の悲願は、やはり北伐(北部の夷狄を倒して中原を取り返すこと)でした。当時、王羲之は、右軍将軍・会稽内史という地位にあり、会稽郡(浙江省紹興市)に赴任して、北伐の軍を物資面で支える使命を帯びていました。王羲之の恩人である実力者・殷浩が北伐を決意したとき、十分な支援体制が図れない状態の会稽郡の実情から、計画を断念するよう説得を試みます。しかし、東晋国内の勢力争いの関係もあって、殷浩は北伐を決行し、軍内部の反乱から戦いに敗れ、結局は失脚します。殷浩北伐の企ての翌・永和9年、王羲之は会稽の蘭亭に41人の名士を集めて禊の意味もこめて詩会を催しました。王羲之も含めた42人が曲水の宴を催し、そのときに出来た詩を詩集にしましたが、このとき酒興に乗って詩集の序文を揮毫したものが『蘭亭序』です。後に何度も清書を試みたそうですが、酒席で書いた書を凌ぐものが出来なかったため、最初の稿を残したといわれています。北伐の失敗のせいもあってか、老年に向かう人生の愛惜と嘆息が読み取れます。――向之所欣、俛仰之間、以為陳迹、猶不能不以之興懐。――嘗ての欣びも、あっと言う間(俛仰=俯いたり上を向いたりする間)に過去の跡となることを思うと、心に迫り来るものを感じざるをえない…。(拙訳です)2年後、王羲之は上司との不和で官を辞し、その数年後に亡くなりました。

『蘭亭序』が評価されるのは、単に上手に書かれた書であるためではありません。文脈に沿って、同じ漢字でも形や強弱・大きさなどが異なり、内容の雰囲気が視覚的にも表現されているのです。例えば、『之』という字は『蘭亭序』の中に20例数えられますが、すべて異なる調子で書かれています。何箇所かにある『以』『所』『其』なども、ひとつひとつ趣の違う字体なのがわかります。展示では、これがわかりやすいように大きな写真版に示してありました。そして、全体を眺めた時、その字の配置が必然であるかのように、調和をもたらしているのです。墨書の文字が織り成す視覚的な美は、漢字の意味がわかる文化圏でしか味わえないものです。書かれた意味を、書体や強弱・緩急・濃淡・墨継ぎの場所・全体の構成などあらゆる方法で表わしているのです。実に知的な美の世界です。伝達手段としての上手な文字といった実用性を超えて、書を芸術の域に高めたのが、王羲之だったといえるでしょう。(左画像はお土産に購入した王羲之「蘭亭序(八柱第三本)」(部分)のポストカード)

王羲之直筆の『蘭亭序』はありません。唐の太宗(李世民・在位626〜649)は、王羲之の字に惚れ込み、彼の直筆といわれる書を悉く集めさせました。王羲之の書の独占です。特に、汚い手段まで用いて手に入れた王羲之の最高傑作といわれる『蘭亭序』には強く執着し、ついに崩御の際に自分の陵墓の副葬品としてあの世にまで持って行ってしまったのです。なんと独占欲の強い皇帝だったのでしょう…。宮廷に集められた他の真筆も戦乱を重ねて失われ、結局、王羲之の真筆は、多くの人々の絶賛にも拘らずこの世から消えてしまいました。

現存する王羲之の『蘭亭序』は、太宗が書の達人たちに命じて臨書(字の模写)させたものや、それらを碑に刻ませて拓本にしたものです。唐初きっての能書であった欧陽詢の臨書が素晴らしいものであったので、それを石碑に刻ませて拓本に取り、また、多くの名人に命じてたくさんの複製を作りました。ここまで執着する太宗も異常ですが、そのために多くの臨書が残ったことは幸いでした。宋代には800種類の臨書があったと言われています。平安朝の日本でも王羲之は既に有名人でした。清の乾隆帝は、とくに出来栄えの優れた唐代の臨書3本を含む8本を選び(乾隆帝自身の臨書も含んでいます!)石に刻んで『蘭亭八柱帖』としました。今回はこの傑作の1つである八柱第三本の馮承素(伝)のものが展示されていました。これは唐代の年号『神龍』の朱文の半印(割印)が、最初と最後に押されているため、『神龍半印本』とも呼ばれています。書には、色々な朱印がペタペタと押してありますが、これは歴代の所有者が自分の印(蔵書印)を押したもので、これによってその書の系譜がわかります。

私たちは、ついつい、中国の古典書を思い浮かべて、中国では始めから今のような漢字を使っていたと思いがちです。日本に漢字が伝わった頃には、既に現在使われているような書体が用いられていたからかもしれません。しかし、漢字は、最初から今のような字体ではありませんでした。

漢字の起源は甲骨文字です。動物の骨を焼いて、そのひび割れの形で占い、それを文字にしたものです。文字は青銅器などの金属製品に刻まれるようになり、これは金文といわれます。のち、篆書という字体ができこれは石碑などに刻まれる格調高い書体ですが(今でも印章などの篆刻に使われています)、日常に使用する文字として、木簡や竹簡に筆で書くのに適した隷書体が作られ、こちらが主流になりました。隷書というのは、篆書体に対して下々の使う書体だったからです。紙が普及するまでは、幅1〜1.5cm、長さ1尺(約30cm)に薄く整えた木簡に字を書いていました。それを紐で繋ぎ合わせて簾のようにして使用し、これを巻いて保存したことが巻物の起源です。秦や漢の法令集や戸籍や勅令など様々な木簡が出土しています。日本でもよく古い木簡が出土し、そこに書かれている内容が考古学や歴史考察上のヒントになっています。こんな狭いスペースに書く文字は、内容も字体も実用的なもので、芸術どころではありませんでした。


左は趙之謙「篆書急就章軸」のポストカード、右は呉昌硯「篆書臨石鼓文軸」のポストカード

 

紙・筆・墨・硯のそれぞれが発展して、筆で紙に書くようになったときの書体が、隷書体を基にしたいまの楷書の起源です。筆や墨などの起源はかなり古く(西洋画の筆は中国の筆が伝わったものです)、紙も前漢のものが出土していますが(蔡倫の発明というのは通説です)、書に関する水準の高い道具がすべて出揃い普及したのが王羲之の時代だったのではないでしょうか。始めのころは楷・行・草の区別が曖昧で、それを明確にしたのも王羲之の書によるものと聞いたことがあります。王羲之の前後から隋・唐にかけての時代が書に対して特に敏感だったのは、書道が確立していく時代だったせいかもしれません。

唐代には優れた書家が輩出しました。欧陽詢や顔真卿という名を高校の世界史で習いました。欧陽詢は篆書を得意とし、実直な北風と洗練された南風を融合させて楷書の極みに達した人です。顔真卿は楷・行・草いずれにも秀でていて、この展覧会では欧陽詢の楷書に対して行書が展示されています。宋代の書家では蔡襄、、黄庭堅、蘇軾という宋代の4大書家も展示されています。蘇軾は別名の蘇東坡でも有名です。黄庭堅のダイナミックな草書は躍動感溢れる書体で、この絵はがきを買ってしまいました。額に入れて飾っています。清末の政治家(戊戌の政変)で学者だった康有為の直筆もあり、感慨深く見てしまいました。世界史の授業で習った人物の直筆が目の前にあるということに、なかなか実感が持てませんでした。どの書も素晴らしく、ひとつの漢字が書き手によって様々な形になり異なる表情を見せることに、今更ながら驚嘆しました。


「行書復官帖」のポストカード

黄庭堅「草書諸上座帖巻」(部分)のポストカード

 

ひとつ気になったのが、表装の方法・形態です。日本の掛け軸との微妙な違いがあり、これらの書に表具を施したのはいつの時代なのか知りたくて、江戸東京博物館の方に聞いてみたのですが、詳しい方がいなくてわかりませんでした。(かなり後世の表具のような気がするのですが…)中国の軸装表具はもともと仏教の祭事用に使われたものでチベット(タンカ)から伝わったと聞いています。インドのパタという布製の仏画が起源とのことで(インドではもう見らいないそうですが)、それがチベット経由で中国やモンゴルにもたらされ、最後に日本に伝播しました。このような軸装仏画の表具の歴史について、どなたか詳しい資料などご存知でしたら教えて下さい。

これを書いているときは、まだ会期中なのですが、残念ながら、掲載される頃には終了してしまうかもしれません。関心のない方でも嵌ってしまうに違いない素晴らしい書の数々。古の日本人が憧れた中国文化の粋を堪能しました。

 

Report by 美術館.comレポーター pictor ignotus さん
 


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